遠藤周作と彼の交友関係   9/24/14

日本語学校で催されたバザーにて1977年発行、遠藤周作の「狐狸庵閑話」を50セントで手に入れた。
彼の本気か嘘か判らないユーモアに抱腹絶倒させられ、僅か50セントでは相済まない気がする。
「深い河」や「沈黙」のような重厚な作品を執筆し、片やこの軽快なユーモアに溢れる随筆。

病弱だった遠藤氏は長い病院生活を強いられ、助からないだろうと言われた大手術を前にして家人に頼み込み九官鳥を飼った。
自分が死んだ時でも空は晴れ、日常の生活は同じように営まれることに対する復讐を計画したそうだ。
自分が死んだ後、九官鳥が自分とそっくりの声でしゃべり始めたら皆がギョッ!とするだろうと期待して。
この九官鳥、利口ではないらしく何としてでも覚えてくれない。
ところが隣室に三年も入院している爺さまが「生きているのも嫌になった。」と言うような一日に幾度ももらす吐息溜息をベランダで聞いている九官鳥は、爺さまの「ウァ~ン」を、そっくりそのまま真似するようになった。
ただでさえ滅入っている氏は、毎日こんな声を聞かされ何とも言えない複雑な気分になったと書いている。

(へなちょこ教育論のブログにも可笑しい逸話が書かれている。)

阿川弘之、北杜夫、三浦朱門、佐藤愛子とは特に仲が良く、阿川の娘の阿川佐和子が慶応を受験するとき、慶應仏文卒の遠藤周作が何かと助言をしてくれた。
裏口入学を斡旋してもらったわけではないのに、阿川佐和子が合格すると、すぐさま遠藤周作が「200万円相当のものをよこせ」といってきたので、父阿川は貰いもののワインや使いかけの昆布を送って、「ケネディ愛用の白ワイン」「紀州徳川公お気に入りの昆布」などと書いて「以上200万円也」と届けにいった。

北杜夫宅玄関の「狂犬注意」という看板を「狂人注意」に書き換えた。

遠藤は息子に「嘘はつくな」と教えていたが、自分は嘘ばかりついていた。
息子あてに女性から電話があると、氏は「あ、先日龍之介と箱根でご一緒した…その節はお世話になりました」などと言う。もちろん箱根に行った相手などいない。この相手とはご破算。
「龍之介さんいらっしゃいますか」と女の人が言うと、「ちょっとお待ち下さい」とか言いながら、受話器の口を押さえずに聞こえるように、「龍之介、龍之介。え?おらんっていうのか。悪いやないか。そうか」などと一人芝居して「もしもし龍之介は留守にしています」…こんな妨害にもめげず、龍之介さんは無事結婚した。

昔、友人の一人が書いていたが、氏も含め灘高の生徒達があこがれた佐藤愛子には終生相当のいたづらをしていたようだ。
声色を使い「電話会社ですが、音声の検査のため受話器に向かって大声で歌ってください。」と電話をし、乗せられた彼女は疑いもせず大声で童謡を歌ったとか。

しばしば阿川佐和子が父親のことを語っているが、遠藤氏に負けず劣らずの人物。
娘可愛さの余り、ボーイフレンドに対して尽くケチをつけた。佐和子氏が20代後半になって、父阿川はあせって「ズボンはいていればなんでもいいから結婚しなさい」
息子が生まれた時に女の子の名前しか用意していなかった阿川氏は通りかかった墓地で目に付いた墓石に刻まれた名前を拝借して息子につけ、娘にも同じ南家の墓石にあった佐和子を勝手にもらったそうだから、やはり普通人ではない。

   秋晴れ
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       日本の姉から送られた夕顔の種を蒔き、初めての開花は夕方の5時ごろだった。
       「どうして夕方と判るのかしら?」と、見事な大輪と香りに狂喜する思い。
       ところが段々と開花の時間がずれてきて、遂には夜が明ける頃に蕾が開き始め
       昼間に咲き誇るようになってきた、摩訶不思議さ。
by arata-tamiko | 2014-09-25 10:58 | 諸々の出来事


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