カテゴリ:悲しかったこと( 9 )

老いの無情   10/14/15

七月に軽い脳溢血で倒れた韓国人の友人Hさん宅を訪れた。
ドアを開けると待ちかねたようにして出てきた彼女は、挨拶もそこそこに「あの話は、あれから進んだのですか?」と訊くのに「何がですか?」と私。

歳を取って、こちらの施設に入った場合アメリカの不味い食事に堪えられないだろうから、日本に帰ろうかと思うことがあると話したことがある。
それ以来「本当にお帰りになるのですか?いつでしょうか?」
「貴女がいなくなったら、私はどうして生きていったら良いのでしょうか?」と会う度に訊いてくるようになった。

Hさんの父親は、日本統治時代に銀行の頭取を務めたような家庭に育った彼女は、教養深く聡明で昔の上品な日本語を流暢に話していたのに今回の病で難しい日本語が口から出なくなり吃ってしまう。
何十年と日本から月刊の文藝春秋を取り寄せ、英語の本も愛読し母国語の朝鮮語とで三ヶ国語を不自由なく話していたのに、今となっては一番話しやすい言語は英語だそうだ、これも不思議なこと。

家系だという手の震えは、益々酷くなりテーブルの上に置いた左手は音を立てるほどで見るに忍びない。
その上に左足に異変を感じ初め、会う度にやせ衰え彼女からは絶望感がひしひしと伝わってくる。
几帳面な性格は変わらず、何かをする都度ノートに日本語で書き込んでいるのが興味深い。
明日になると昨日のことを忘れてしまいそうで、日々の生活を記録しておくのだそう。

「また来ますね。」と玄関のドアノブに手をかけると「多美子さん、私が死ぬまで、日本に帰らないで下さい。」とすがるように細い声で言う。
「今日、明日と日本に帰るわけではないのですよ。どうぞ心配をされないでください。」
「でも、貴女は思い立ったら、すぐに実行に移す人です。だから私は怖いのです。」
「まだまだ先のことですから、安心して養生されてください。」と言い聞かせても「何とか私が死ぬまで、、、。」と、私の手を取って繰り返す。

「判りました。私がHさんを看取ります。」
「本当に看取ってくれるのですか?」
「私が貴女より長生きをしたら、看取ります。」
「有難う御座います。私もあなたの御迷惑にならないようにできるだけ早く。」と、言い出したHさんに「それ以上言わないで。」と遮って、ドアを閉めた。

   蒸し暑く日中25度
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         ジムに毎日欠かさず通ってくる82歳のキューバからの亡命者、Sylvia。
         写真を撮ってあげると言うと「待って!」と、なかなか戻ってこなかった。
         地下のロッカールームに行って、バッチリ化粧直しをしていた。
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                        22歳から始めたそうだ            
       

   
by arata-tamiko | 2015-10-14 13:09 | 悲しかったこと | Comments(0)

また親しき友が一人逝ってしまった   4/20/15

アメリカに移って来たのが83年で、初めて住んだ町がベルモント。
その時の隣人で、何かと助けてくれた夫妻の夫、ヴァグが96歳の人生を閉じたと知らせが入った。

住み始めた頃、私を見ると近所の人たちから「出かけるの?」と訊かれ、どうしてなのか理由が解らなかったが、暫く過ごしているうちに、家にいるにしては私の身なりが余りにもキチンとしているため、そう思われていたようだ。
日本で未だジーンズが流行っていなかった時代、私は一本も持ち合わせておらずアメリカに住み始めても常に日本と同じような格好をしていた。
だからアメリカ人の服装のだらしなさには驚かされ、穴のあいたTシャツを着ているヴァグに「どうして繕わないのか?」と聞いたことがある

ある問題が起き、彼に相談をすると「自分が弁護士を演じるから、テーブルで、君は何も話すな。」と言われ、約束の日に彼のドアベルを鳴らすと、出てきた彼は別人かと見紛うほどのいでたち。
言葉が出ない私に「スーツ姿で何十年働いてきた自分は、退職した後の人生は、洗濯さえしていれば穴があいたシャツを着て気兼ねなく生活をしているんだよ。」と笑った。
席に着くや否や相手に向かって「初めに自分が話す。終わるまで黙って聞け。君が話すときは、私も質問をしないで黙って聞くから。」と、先手を売って見事な演技。

ことが片付いた後「アカデミー賞ものね。」と褒めると、歳の離れた兄さんが本物の弁護士で書類を手伝ったりしていたし、法廷通いの傍聴が趣味だった。
それで時折朝早く、彼は出かけていたのだ。

ドイツの敗戦後、駐留した地で妻のウスラと知り合い結婚。
彼女は典型的なゲルマン民族のプラチナブロンドと澄み渡った青空のようなブルーの瞳。
結婚式の写真のウスラのエレガントさと美貌には、引きずり込まれるほど。
ドイツ人女性の几帳面さ、清潔さを備えた彼女の家は、常に埃一つ見つからず磨いたようにピカピカ。
アメリカに来て数年後、クローゼットを片付けていた彼女は夫が持ち帰ったナチスの鉄カブトとハーケンクロイツの旗をベランダに虫干しをしていたそうで、帰宅したヴァグは近隣の人々の感情を思うと肝がつぶれるようだったと、愛おしそうに彼女を見つめて想い出話をしたのも懐かしい。

自宅で開かれた、つつましやかな息子の婚約ディナーの席で婚約者の女性に「結婚を決めた一番は?」と聞くと「彼の両親に対する態度を見ていて、この人なら私は一生幸せになれると思ったの。」だった。

ある問題で、やはりヴァグに相談をした時に「君は決して間違ってはいない。しかし余りにも真っ正直だと、他人に取ってはトラブルメーカーになりかねないのだよ。」と、諭され肝に銘じるようにしているが、性分なので、未だに突っ走ってしまうことがある。

   雨の中、ボストンマラソンの選手達大変だろう
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                             山登り用だそう
by arata-tamiko | 2015-04-21 03:20 | 悲しかったこと | Comments(0)

小野田寛郎氏逝く   1/16/14

                     惜しい方が逝ってしまった、、。

つい数日前に「最近姿を見ないけど、お元気かしら?」と小野田氏のことを思ったから、よけい無念の思い。

銃撃戦で小野田少尉の生存が判明し、どうしても姿を現さない息子の名を呼びながら80歳過ぎた父親がジャングルを捜し歩く姿は見る人の胸を痛め,日本国中が一緒に「小野田さん、出てきて!」と祈ったものだ。
かっての上官が下す任務解除・帰国命令を直立不動で聞く小野田氏の映像は、タイムマシーンに乗って戦前の日本にいるような錯覚を起こすほどショックで釘付けになった。
それだけでなく、平和な日本では、見たこともない男の射るような眼光、険しい風貌に日本中が驚愕し、軍刀をフィリピン司令官に渡したとたんに柔和な顔立ちとなったのは、これが同じ人物かと、もっと驚かされた。

小野田氏の帰国後しばらくして手紙を出すと、差出人として医者である長兄のお名前で印刷された葉書が届いた。
膨大な郵便物を受け取っていただろうに、印刷文の最後にお兄様の自筆で一筆添えられていたのには「流石にあの御両親の息子さんだな。」と思わされた。
帰国後、良き伴侶とめぐり会え余生を仲良く幸せに暮らせたのは本当に良かった。

   暖かい
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by arata-tamiko | 2014-01-17 13:05 | 悲しかったこと | Comments(0)

大事な人が逝ってしまった   1/11/12

 今朝、全文韓国語で書かれた長文のメールを受け取った時、胸騒ぎがした。
やっと起きてきたソンヒーに読んでもらうと、つたない英語の訳ながら釜山の我が家で働いてくれた小母ちゃんの死を知らせる義理の息子からのものだった。

 七年前、あることから彼女の住所を手に入れ三十年ぶりに再会した彼女の余りの変わりように言葉がなかった。
昔は、いっときも休むことなくクルクルと独楽鼠のように働く彼女に「頼むから休んで。」とお願いするほどだったのに、八十歳の彼女はパーキンソンを患い杖をつきながらホテルに来てくれた。
背中に背負った袋から震える手で蜜柑が入った袋を取り出し「奥さん、好きでしたな~。」と差し出された時には胸が塞がる思いだった。

 それから二度釜山に行ったが、彼女の娘夫婦が母親のアパートの一室をペンキを塗って迎えてくれた。
最後となった三度目は暑い夏の八月。
ビルにさえぎられた蒸し暑い部屋で、室内の歩行も困難となった彼女は横たわり扇風機の風をあびながら一緒に沢山の話をした。

 滞在最後の日、外から戻った私に「奥さん、暑かったでしょう。冷蔵庫にかき氷を買っておきました。」と、回らぬ口でゆったりと言う。
ドアを開けてみれば、アパートの下の店で売っている、かき氷パックが3個入っていた。
一度買ったとき、その美味しさに「帰るまでに、もう一度食べないと。」と何気なしに口にしたことがある。
「まさか下まで自分で?」と驚くと「奥さん、エレベーターがありますがな。」と弱弱しく笑う彼女に「どうして、そんなに優しいの!」と悲しくって怒ってしまった。

 京都で在日として生まれ、8歳にならずで女中奉公に出され学校に通うこともなく戦時中は親から言われるまま同じ在日と結婚して戦後すぐ韓国に渡った。
敗戦の日本と違って戦勝国となった韓国では食べ物もあると大勢の在日が韓国に渡ったが、彼等は「日本帰えり。」と馬鹿にされ「騙しやすい。」と言われていた。
韓国語が下手な夫も散々騙され酒に溺れ、包丁を持って妻を追いまわし彼女は死に物狂いで働いて三人の娘を育てた。
その苦しめた夫も亡くなり、やっと息がつけるとなったら酷いパーキンソンに苦しめられる人生。
嘆く私に「奥さん、私はよほど前世に悪いことをしたんでっしゃろ~な。」と笑顔で言った。

 筆舌にし難い苦労の積み重ねの人生を送り、読み書きが出来ずとも聡明で清い心と人情溢れる優しさを失わなかった稀有な人物と知り合えたことを感謝している。

   快晴
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      運転手だったキムさんに「一緒にお墓参りに行こうね。」と電話をかけると「奥さんと
      話す時のために英語を忘れないように時々勉強をしています。」と言う。
by arata-tamiko | 2012-01-12 13:15 | 悲しかったこと | Comments(0)

友人を葬送する  10/7/10

  Toyotaのディーラーで14年間、私のお客様の世話をしてくれたDonのお葬式がNewtonの教会で行われた。
こよなく日本文化を愛し何十年とJapan Societyのメンバーでもあったから、6,7人の日本人の参列者の姿もあった。

 ある時、休暇で日本に行くと言う彼に「ツアーで?」と聞くと「京都で催される”お香の集い”のメンバーだから参加する。」と言う。
「お香って、あのお香?」と、いぶかしる私に「そう、英語でインセンスと言うお香。」には「へぇ~」と言うしかなかった。
今時日本でも、よほど風流な人でないとお香なんて焚かないのでは?

 四ヶ月前くらいから、彼に「顔色が悪いわ。」とか「なにか病気に見えるのだけど。」と忠告すると「風邪を引いたみたいだ。大丈夫だよ。」と笑っていたが、今から思うと既に喉頭癌にかかっていた。
仕事を辞め自宅療養しているDonと話したとき「希望を持って生きているから大丈夫!」と明るく言う声がかすれ気味で悪い予感がした。
正直で温かい人だった。

 午後の電話は、ガソリンスタンドから出てきた車に追突されたお客様から。
相手の車はバンパーが凹み、彼の車はボディーの横に凹みが出来たそう。
破損状態からしても、歴然として相手が前方不注意の過失となるはず。
しかし、事故は被害者でも車を修理に出し、保険会社からの書類書き込みと実に面倒くさい。

   曇り
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      「お悔やみ」のお金は、Donの意向でDana-Farber Cancer Instituteに寄付される。
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   職場であったToyotaのディーラーからは8人も参列していて驚いた。
   Donと47年間暮らしたパートナーは、右手の白いバラの場所に掘られた四角い穴にDonの      骨壷をひざまづいて置いたあと、悲しみの余り立ち上がれなくなってしまった。
   Donのパートナーと抱き合い悲しみを分かち合うToyotaのマネジャーの目は真っ赤。
   嘘はつかない、言ったことは守る。優しさもありながら余りにも頭が切れる男性なので
   もっとクールかと思い込んでいた。
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                   納骨の間中、音楽が流れていた。
      
 
by arata-tamiko | 2010-10-08 12:22 | 悲しかったこと | Comments(2)

悲しい知らせ   8/21/09

 30年前の釜山住まいに我が家でお手伝いをしてくれたチャンさんは、パーキンソン病で苦しんでいる。
滞在中の三年半、親身になって私達家族のお世話をしてくれた彼女を今でも私達は昔のまま”おばちゃん!”と呼んでいる。
 80歳で一人住まいの彼女へ、月に一回は電話をかけるようにしている。
何か気がかりで電話をすると返事がない。何度かけても電話ベルが鳴るだけ。
不安がつのり、帰宅したスヨンに2番目の娘宅に電話をしてもらうと、2週間前に顔に大きな青あざが出来るほどの転倒をしたそう。
2年前に会った時には既に歩行も困難だったが、彼女の性格なら這ってでも生きていたのだろう。
しかたなく養老院に入れたが、家に帰りたがって困っているそうだ。
幸いに、この2番目の娘さんのご主人が出来た人で院費の10万円も出してくれるそうだから安心。

 「何とかして話は出来ないか?」と訊くと、週末に家に連れてきてくれるとのこと。
施設に入って以来、物忘れの症状が出てきたそう。
小学校へも行くことが出来ない貧乏な家庭に育った彼女ながら、頭良く記憶力は抜群だった。
戦後韓国に戻ることなく日本で生活していたなら、彼女ほどの正直で働き者、そして聡明な人間は何らかの成功の道があったはず。
一生苦労と貧乏生活、彼女を思うたび世の中はなんと不公平かと思わされる。

 敗戦の日本から23歳で夫と一緒に自国に帰ったが、彼女達に取っては初めて見る韓国は外国。
「日本帰りは人がいい。」と、相当騙されたようで、私がスヨンと住み始めた時は「奥さんはお人良しだから、韓国の人には気をつけてくださいよ。」と心配されどおしで長いことスヨンは信用されなかった。

   昨日より少し気温が下がっても動くたび汗が噴き出る
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             郊外にあるアパートの敷地に生える可愛いキノコ
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       炎天下のアパート探し、あるモールで休憩。
       若い男性のお客様はジュースだけ、私は無難なところでチキン照り焼き。
       一人で食べるのも気まずく「少し端から味見されますか?」とフォークを
       わたすと美味しそうにしている。
       結局、会って2時間のお客さんと私の二人は反対側から一緒に食べるように
       なった。
by arata-tamiko | 2009-08-22 00:05 | 悲しかったこと | Comments(0)

胸が痛むこと   6/26/08

 横田さん御夫妻や拉致被害者家族をテレビで見るたびに一緒に涙したり、かすかな希望に一緒に喜んだりしていたが今朝のニュース番組に出演していた横田早紀江さんは余りにも可哀想で見ているのが辛かった。アメリカへ対する失望と無念さが伝わってくる。
横田氏は出席されていなかったが健康がすぐれないのかもしれない。

 姉から達っちゃんが癌で亡くなった、、、と電話があり嘆息。姉とは学生時代からの大親友。背のスラリとした目鼻立ちの整った美人で姉は引き立て役みたいだった。知らせてくれた親友と三人いつも一緒だったから、その彼女と「いよいよ私達の番になってきたのね~。」と言い合ったそうだ。
私と同世代の松山千春が重体とのニュースがあった。

 車を購入されたお客様から「白い恋人」を頂いた。実にサッパリした爽やかな方で心臓外科医だそう。(白い恋人をもらったから言うのではない)
試運転をしたとたん彼がどれくらい車好きか分った。思わず「かなりのスピード違反の切符をもらっているでしょう?」と訊いてしまう。

 スヨンが暗い顔をして帰ってきた。夏休みは安い給料で若い人達を使えるからだろう、今まで週6日働いていたスヨンに店主が突然「週三日」と一方的に言ってきたそう。
「これでは生活が出来ない。ジミー、どうして亡くなったの!」と去年の秋逝ってしまった店主に話しかけるようにして天を仰ぐ。
将来のため必死に働き必死にお金を貯め、その中から両親や甥達に贈り物をしても自分のお洒落用品などは一切買わない彼女。スヨンの今の心境を思うと胸が痛む。

   どんよりとした一日
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          3ヶ月前に帰国をした渕さんから私の大好物の干し筍が送られてきた
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          渕さんの故郷である宮崎名産だが彼女から何度も頂いたこの種類が
          一番美味しい 今夜一晩水に漬けておいて明日煮よう
by arata-tamiko | 2008-06-27 14:39 | 悲しかったこと | Comments(0)

スヨン出発   12/8/07

 お昼出発の便でCA州に移るスヨンは部屋をきれいに掃除。本国の教科書やマスコミから得た知識だけの彼女の偏向した日本観には時折ムッ!と不愉快だったが、それも歴史の先生だったことを思えばしかたない。しかし、それ以外には何の文句もなく実に人柄の良い女性だった。一年以上、波風なく言葉もままならない他人と楽しく住めたのは一重に彼女の性格による。彼女からは韓国に関して、いろいろと学んだ。
 「英雄時代」を一緒に観ている大学生のチヒョン、24歳は世代の違いか単なる勉強不足か、その当時の貧しい韓国生活状態の映像をまじえた画面に向かって「汚いわ。どうやってあんな生活が出来るのかしら?」と言っている。久しぶりに会う家族の年長者に向かって両手を額にあて深々とひれ伏し挨拶することも彼女はしないそうだ。代わりに抱きついて挨拶すると言うと、スヨンは「アイッシ!」と嘆く。40歳のスヨンなら韓国の貧しさが記憶にあるが、20代の若者が国を動かすようになれば、韓国も日本のようになってくるのだろう。
 お年寄りが「昔はご飯も食べれなかった。」と、昔話をすれば「ご飯がなければ、ラーメンを食べれば良かったのに。」と、若者から言われた笑い話しが韓国にはある。

 今日も韓国のお客様達から「韓国はどうだった?」と聞かれた。我が家の近所に住んでいた歯医者さん夫婦は20年前にアメリカに来たのでチョガァヌを知らないと言うので「韓国人として彼の存在は知るべきよ。」と、車にあったCDをあげる。

 サムソンの創設者が1949年に韓国臨時政府から、戦後の復興から立ち上がりつつある日本を参考にするために視察を命じられるドラマのシーンを姉に話した。ふと入った町の床屋が何代も続いた商売で仕事に誇りを持って家族で働く姿に「ここも我が国と違うところだ。」と胆に命ずる。姉は「本当よね。昔の職人気質が今は失われつつあるものね。吉兆の初代が言っていたわ。”屏風と商売は広げ過ぎれば倒れる”って。」の話の後、日本の学力低下の酷さに話題が移る。姉は毎朝お掃除をしながら、こちらでもインターネットを通して可能な「浜村淳」のラジオ番組を聴いている。
「あの”ゆとり教育”を発案した張本人は、のうのうとあるテレビ番組のゲストで何曜日にご意見番みたいにして出演しているそうよ。だから私、来週は絶対に見逃さないで”ハッシ!”と見てあげるわ。」と憤っていた。
ちなみに、この学力テストでは韓国が世界一だったそうだ。
by arata-tamiko | 2007-12-10 00:16 | 悲しかったこと | Comments(2)

韓国式の通夜   10/30/07

 朝スヨンから「ジミーが亡くなって涙が出ないの?」と言われた。私は人前で泣き顔は見せたくないし、ジミーの性格なら自分の死で人が泣くのは苦笑するだろう。スヨンと店員達は、電話で話しては泣き、想い出話をしては泣いている。韓国人は喜怒哀楽が激しい。

 午前と午後で2家族の車購入のお手伝いをした。午後のTさんの予算では、スバル車は少々高い買い物。しかし「子供を乗せるなら絶対にフィットは止めた方が良い。」と、マークは言う。同じ価格でホンダアコードの中古にしては?と提案するので、Tさんご夫婦に中古のカローラとアコードを紹介。
 彼等の希望車はカローラと決まり、マークに謝ると「いいよ。今度また紹介してくれ。」と言ってくれた。
何故に新車に拘るのか?と訊けば、勤務先のアメリカの会社から提供されたドッジのジープが一ヶ月も経たない内にギアを止めている心棒が走行中はずれ大事故につながるとこだったそう。そのため中古なら、もっと各種の問題が起こるのでは、、、と恐れているとの事だった。アメリカ車が、売れなくなってもしかたない。
 このビジネスを始めた時、お客様がWatertownのディーラーでミニバンを買った。一週間もしない内に故障続出。ディーラーの対応の酷さに、CA州にあるカスタマーサービスに電話をして「貿易不均衡とかでアメリカ車を買え、買えと、クリントン大統領は言っていますが、こんな品質で、こんなサービスで貴方だったらアメリカ車を買いますか?」と言ってあげた。この後、ものの三十分も経たない内に、ディーラーのマネジャーからお詫びの電話がかかり「お客様を是非紹介してください。」に「遅すぎる!」と言ってあげたが、気持ち良かった。
 Tさんが支払う時に「この色の車は$600高くなります。」と言うと笑っていた。彼の会社はエンブリオの何とかを培養するプラスティックの箱を作っているそうだ。動物実験ばかりでは、動物が可哀想なので、できるだけ育てて何とか、かんとかと興味ある仕事だった。
「そんな研究をする貴方は大学では何の専攻?」と訊くと「畜産なんとか、、、」と言っていた。
全てが興味ある事柄だが難しすぎて全てが何とか、かんとかだった。座ってジックリ聴いてみたい。

 5時過ぎ帰宅中、前田さんから携帯に食事の誘い。急いでチビに食事をさせ、外で排泄も済ませCafe Sushiに向かう。今日のパレードでキルトのスカートをはいて笑わせてくれた若い投手の投げる時の集中した丸い目と息を静かに吐く丸い口の丸さが同じ大きさ。あのチョット突き出した丸い口は、飲み屋に吊り下がる河豚提灯を思い出させると言うと、娘のYちゃんは大笑い。ファンなのだそう。

 別れた後、Reliableでの通夜に行く。60人ほどの人が集まってバッフェスタイルで食事をしていた。女性達は、抱き合い手を取り合い涙を流す。スヨンに「どうやって韓国語で言ったらいいの?」と訊いた時「黙って抱き合い手を握れば良い。」との返事だったが、日本では見られない光景。上の娘から「父親は貴女に、いつも感謝をしていた。とても貴女を好きだった。」と言われた時は胸がつまった。

 直ちゃんから詫びのメールが入った。薩摩揚げの大好きな私のため、御両親の故郷である鹿児島の美味しい、美味しい薩摩揚げを姉宅に送りたくお店に配達注文の電話をかけたつもりが姉の番号。
間違ってかけてきた直ちゃんと姉のやり取りを姉が電話で知らせてきた。
「あの~、薩摩揚げを」「エッ?何ですか?」「薩摩揚げを。」「何の話かサッパリ分からないのですが、、、。もう一度初めから言い直してください。」「薩摩揚げを注文したいのですが、送ってください。」「貴女は間違ってかけていますよ。」と言った会話だったよう。
 のっけから「薩摩揚げ」と言われたので、姉は初め私が日本に注文した薩摩揚げ店からの電話かと思ったそうだ。直ちゃんは電話を切った後、私の姉宅にかけたことに気づいたとメールにあった。姉も相手が直ちゃんと私から聞かされ「これでは貴女とウマが合うはずよ。」と、彼女のそそっかしさに大笑い。私も呆れるほどのそそっかしい姉が人のことを笑えたものだ。

   パレードには最高の天気
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                勝利のパレードの余韻が残る前田さん
        この写真を見ながら、前田さんが何故に一本指を立てているのか
        理解に苦しんだ 普通の人は2本指でピースサインなのに、、、。
        シャワーに入っている時、突然閃いた!これは一番サインに違いないと!
by arata-tamiko | 2007-10-31 13:56 | 悲しかったこと | Comments(0)