淵沢能恵と言う女性   5/30/09

  韓国は日本に向かって「歴史歪曲」と、よく責めているが彼等も余り言えたものではない。
先日お目にかかった韓国女性のHさんの学校である「淑明女学校」を調べ始めると、創立者は日本女性であることが分かった。

 解説は以下のようにある。 (KJCLUBより)

         淵沢能恵(1850-1936)淑明女子高等普通学校の創立者
 福沢諭吉の『西洋事情』を読み西欧文化にひかれ、31歳のとき釜石鉱山の技師・バーゼル家の女中としてロサンゼルスに渡り、のちに自立してサンフランシスコで英語を学ぶ。
帰国後、同志社女学校に入学、東洋英和女学院で教鞭をとる。
1905年(明治38)に韓国に渡り、1906年 明新女学校(のちに淑明女子高等普通学校と改称)を設立、その女子教育にかける熱意は地元でも評価され、学校設立後すぐに李王朝から校地や資金を援助される。
1936年(昭和11)、87歳で死去。彼女の創立した学校は、現在も名門私立大学として多くの人材を輩出している。

 これで、やっと生徒が朝鮮人のみであった謎がとけた。
「人生50年」と言われた時代、1881年に31歳で女中としてアメリカに渡り、55歳で朝鮮の京城、、、とは、このエネルギー驚くばかり。
(今のニートに聞かせてあげたい)
 朝鮮人女子に教育を授けるために心血をそそいだ偉大な日本女性の存在を知った。
ところが、韓国では彼女の名前は完全に抹消され、大学のサイトにも「民族の受難期である1906年高宗皇室厳皇貴姫によって設立された国内初の民族女性私学」と紹介されている。

 真相を知りたく、Hさんに電話をすると彼女は初めて知る真実にショックのあまり暫く沈黙してしまった。
Hさんの入学は敗戦直後、高宗皇室厳皇貴姫の大きな写真が掲げられ設立者として教えられていたそう。
「真実を教えるのが歴史なのに韓国はそうではありません。」と言いながら、この淵沢能恵についての本を何とか日本から取り寄せて欲しいとの頼み。

 彼女の父親が勤務していた銀行名を聞くスヨンに「殖産銀行」と言ったとたん独特の不愉快な顔をした。
そして「Tamikoには申し訳ないが、爆弾を仕掛けられたこともある。」と言う。
いわゆる日帝時代の親日派に関係したものだったに違いない。検索すると石造りの威風堂々とした銀行の建物と大通りの写真が見つかった。
早速そのサイトを送ってあげると、70歳過ぎてパソコンを習った彼女から「私の楽しかった日々が思い出され、父が銀行の前に立っているようで胸が一杯になりました。」とメールの返事があった。

   午前の10時ごろより急に暑くなる
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                    こちらでは”韓国花みずき”と呼ばれている
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                名前は知らないが紫陽花の仲間ではないだろうか?
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                     この石楠花の色は、とても綺麗
by arata-tamiko | 2009-05-31 13:38 | 興味ある話


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