Miss. Jangの人生

                        オバちゃんと金さん
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 韓国では結婚しても姓は変わらないためMiss. Jang(チャン)とアメリカ人から呼ばれていたが、私達家族は日本式に”オバちゃん”と呼んでいた。

 私が知る50代だったころの彼女は、快活で、よく笑い、クルクルと働き我が家ほど掃除の行き届いた家はなかったと思う。時折「少し休んだら?」とお願いするほど常に動いていた。
アイロンが上手で「必要ない。」と言っても、家族の下着総てにアイロンをかけ軍服顔負けの折り目をつける。塵袋が少しも減らないので不思議に思っていると、オバちゃんは生塵をアパートのゴミ捨て場に捨てた後そのナイロン袋を洗って干して再利用していた。
30年後に再会したオバちゃんは、謙虚な態度、優しさ、思い遣りと言った生まれながらの性格は変わっていなかったが、生きる事に対しての興味を全く失っていた。オバちゃんが持っていた輝くエネルギーと笑いは見出す事は出来なかった。

今回オバちゃんの想い出話をディスクに収めてきたが、映画の”おしん”より辛い人生。
 オバちゃんは昭和2年、東京の多摩川で南朝鮮からの両親の長女として生まれたそうだ。
貧困ゆえに各地を転々としたそうで物心つくころは京都の十条に住んでいた。多摩川に住んでいた6歳ころの時、夕方既に暗くなって母親にゴマ油を買いに行けと言われた。
「奥さん、その頃の多摩川ゆうたら電灯もない、暗いでっしゃろ。でも親の言いつけやからビンを持って買いに行きましたがな。両手に抱えて必死に帰っていたらデコボコ道の石につまづいて転んでビンが割れてしもうて・・・。母親のキツイ顔を思うと、そのまま帰れはしまへんがな。またお店に戻って”おじちゃん”と泣きながら一言いったら”そうか、そうか。”と言いはって、何も言わずに他のビンに入れて手渡してくれました。あのオッちゃんにお礼を言わんままに年取ってしもうたのが心残りですわ。」と淡々と話す。
 10歳になった時、京都駅を下がった七条にある大きな屋敷に住み込みで奉公に出された。この付近は家畜の屠殺場があり、それに関わる人々が沢山住んでいたそうだ。この家は沢山の朝鮮人を使い牛の脳みそや内臓をアルコール漬けにして、今でも現存する日本でも一、二を争う製薬会社に発送していたそうだが、いったい何に利用していたのだろう?(オバちゃんは会社の名前も記憶していた。)
腸はソーセージ用に女性達が竹のヘラでもって綺麗に水洗いをしていた。捨てるところは何もなかったそうだ。牛の脳みその中には小指の先ほどの”玉”が一つあり、それは金よりも高価なために珍重され金庫に大事にしまわれていた。大ぶりの玉が出てくるとご主人は大喜び。
「それ、何に使うの?どうして、そんなに高価なの?」と聞くと「奥さん、子供やし、分りまへんがな。人が買いに来ると、ブン銅計りで大事そうに計って売っていました。今になってみれば自分でも、あれは何やったやろう・・・?と思いますわ。」と訝っていた。
 妹や弟が次々と生まれれば生活も一層苦しく月半ばにして母親が背中に1人を背負い両手には二人の子を引き連れて「給料の前借をしろ!」と言いに来る。オバちゃんは恥かしくて「いやや!」と泣きながら断ると母親は地べたに座り込んで朝鮮語で罵り始める。その怒鳴り声を聞いた屋敷の奥さんは「ヨシちゃん、これ。」と袋に入ったお金をくれたそうである。
「奥さん、その時の恥かしさ、分りますか?それでもオカァチャンを憎いと思ったことは、あらしまへんのや。ただ、ただ親を助けたい一心だったのでしゃろう~な。」と無感情で話す。
「毎月いくらもらっていたの?」と聞くと「分りませんよ奥さん。母親がそのまま持っていくんやから。いっぺんでも袋の中を見たことあらしません。でも働く朝鮮人のおばちゃん達に日本語で通訳できるゆうて、ご主人から”ヨシちゃん、ヨシちゃん”と大事にされて、おばちゃん達から羨ましがられていたさかい、ようけもろーといたのと違いますか?」。
「着るものはどうしていたの?」には「それですねん。今になって思えば、私何を着ていたんかな~?下履きのパンツなんかはどうしてたんやろう~?と思いますわ。」と遠くを見つめる目つきをした。
 「14歳の時に通いにしてもらいました。」「どうして?」と聞くと「下が7人も出来たから、母親が大変で見てられしまへんでした。何とかしてオカァチャンを助けてあげようと思いまして。昼間働いて夜に家族の洗濯物や片付けものをしますやろ。疲れますわな。ある時アイロンをかけていたら、手にもったまま眠り込んで焼ける臭いでハッと目が覚めましたわ。でもその時、きついオカァチャンが何も言いまへんでした。分ってくれてたんでしょう。」と少し笑顔を見せた。
 15歳で朝鮮人の男性と結婚させられたと言うので「どうして、そんなに早くに?」と不思議に思うと「15歳になると女子は挺身隊にとられますねん。朝鮮人のアンタは日本人の中で苦労するやろ・・・と言われて結婚しました。」。
ご主人は腕のいい友禅の染物師だったが、戦争も激しくなると友禅どころでなくトラックの運転手となったそうだ。その頃は、オバちゃんもそれなりに、つかの間の幸せを味わったようだ。
「”日本が戦争に負けた!俺達は何でも好きな事が出来る!”と朝鮮人達が暴れ回っているのを見て腹が立って、腹が立って・・・。おかしいですね。私も朝鮮人やから喜ばないといけしまへんのに・・・。」と僅かに笑う。
 終戦の翌年「朝鮮には食べ物が沢山ある。」と言う世間の噂を夫が信じ夫婦二人して自分の国に戻った時からオバちゃんの人生の悲劇が始まる。どうやって生きてこれたんやろ~と思うくらい食べ物もなく日本語訛りの朝鮮語を馬鹿にされながら、出来る事は何でもして働きお金を貯め、やれやれこれを元手にして何か商売をしょうか・・・と言ってるところに、ご主人の友人が上手い話を持ち込んできた。気付いた時は有金全部を騙されご主人は立ち直れず酒浸り。
それから想像を絶する暴力を振るわれながらオバちゃんは酒乱のご主人を抱えて何十年間と外人家庭にメイドとして働きづくめ。「奥さんの所に働かせてもろ~た時は少しは大人しくしてましたわね。日本人の奥さんに良く見られたかったんでしょう。」と言う。私もご主人と会う度に暴力をふるわないようにお願いしていたが、飲まないと借りてきたネコのように卑屈な態度を取ってみせた。
 「どうして別れなかったの?」「別れたくっても別れられしまへん。出刃包丁を懐にちらつかせながら”俺の女房を隠したら、どうなるか覚悟しているんやろ~な。”ゆうて親類や友達の所に行きますがな。私が我慢せな、あかんでっしゃろ。」と言う。
「日本の人は”畳の上で死なれへん”っていいましゃろう?だけど主人は私達をあんなに苦しめといて酒飲んだまま布団の上で死んでましたがな~。」と十年前に逝ったご主人の様子を話してくれた。
 飲んでばかりいるご主人に少しは滋養のあるものを・・・とお昼にアメリカの家庭で出されたハンバーガーを食べずにご主人に持って帰れば”うまい、うまい”と口にした後「どこのアメリカ兵と寝てもらったか!」と散々殴られ「釜山にいるアメリカ兵は皆私の男や!」と言ってあげたと寂しく笑って話す。
 娘三人は幼い頃から父親の暴力の中で怯えて育っているから皆心臓が悪いそう。上の娘は捨てられていた乳のみ児を拾って育てたから血は繋がっていない。その娘が年頃になった時、隣家に遊びに来た今のご主人と仲良くなり、オバちゃんは長屋に住む人達から聞かされたそう。「奥さん、今考えると何であんなにいけずをしたんでっしゃろう?情けのうて娘の首に包丁を突きつけて”死ぬか、男を取るか!”とゆったんですから。娘は真っ青になって黙ってしもうて冷や汗を垂らしているのを見たら”そんなに好きなんか・・・。”と力が抜けてしもうて。」と自分の愚かさを恥じる。
 血の繋がらない長女も含めて三人の娘も嫁ぎ婿たちも大事にしてくれると今の幸せを感謝していると言う。
by arata-tamiko | 2005-12-08 07:54 | Comments(0)


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