想い出の中の人々   1/30/16

末っ子に生まれて良かった、、、と思うことは、自分の記憶にないことや、うっすらとしか覚えていないことなど上の姉二人から「こうだった、ああだった。」と教えてもらえる。

4歳違いの姉との思い出話。

「おとやんたちを覚えている?」と姉が訊いた。
「ねんねこ半天に赤ちゃんをおんぶして、物貰いに歩き回っていた乞食の母と娘連れでしょう?」
「そう、娘の名は”はなやん”で、赤ん坊は男の子だったのよ。いったい誰の子だったのかしら?」
「ゴミ箱をあさったりして生きている人たちがいた時代もあったのよね。」

「炭焼きの”ふくやん”って、三十代の酷いみつ口の男が防空壕の中に住んでいたわね。炭俵を編みながら、女生徒が通ると卑猥なポーズをしたり、指でして見せたりと気味悪るかったわね。」と私。
「でもね、今になって思うけど、あの不潔さと醜い顔では、そういった経験は無だったのではないかしら。だれかが面白がって教えたのよ。そしてそれをすると、皆が面白がったり女の子はキャーキャと声をあげて逃げたりで、ふくやんが人の視線を得る唯一の方法だったのではないかしら?」
「そうだったのかもね。酷いみつ口だから、何を言っても”フガフガ”にしか聞こえず、人々から馬鹿にされ、あの行為のみが彼に取って人の注目を浴びる方法だったのね。どんなに人恋しく寂しかったでしょうね。」
「俵を一つ編んで、いくらになったのかしら。焼いた炭を山から担いで下りてくるのは重労働だったでしょうね。」

「あの白痴の女のお腹が大きくなったのには驚いたわね。だれの子だったのかしら?」と姉。
「何でも噂では、父親は国鉄職員だって。」
「そういえば駅舎の周りを、いつもフラフラ歩いていたものね。」
「相手は1人ではないから、本人も父親が誰か判らないって引き取った人が言っていたわ。」
「あの赤ちゃん、どうなったのかしら?」

傷痍軍人を知る最後の世代が私でしょうね?」と私。
「お祭りの時など、足がない人はコロを付けた板に座ってアコーディオンを弾いたりハーモニカを吹いていざっていたけど、皆冷たかったわ。戦争で手足を失くしたとしたら、余りにも不憫よね。」
「ところで義兄さんは、傷痍軍人って見た事あるかしら?貧しい漁村なんかには、彼らも行かないでしょう?」
「もしかしたら、私達の町の駅で見ているかもよ。人混みの中で傷痍軍人たちは物貰いをしていたもんね。訊いてみるわ。」

姉から「やっぱり村では見たことはないけど、私達の町の駅と汽車の中で見たって。」と報告があった。
もの悲しい思い出だが、60年前の日本には、映画「砂の器」に出てくるような人々が存在していた。

   到着したお客様が、東北より暖かいと言う。




   
by arata-tamiko | 2016-01-30 13:29 | 諸々の出来事 | Comments(2)
Commented by ゆだ at 2016-02-02 13:04 x
傷痍軍人なら東京にも1970年代ぐらいまでいました。私は吉祥寺で育ちましたが、現在のパルコのある通りに行くと白い服を着た人が二人居て、一人はアコーディオンを弾き、もう一人はただ座っていたのを覚えています。子供心にあまりに不憫で、買い物でそこを通る度に母からお金をもらって彼らに渡していたのを思い出しました。万博の頃までは日本もまだまだ貧しかったですね。
Commented by arata-tamiko at 2016-02-06 11:14
70年代までいたのですか?
私は、今でもアコーディオンを見ると、その情景が浮かんできて物悲しくなってしまうのです。
国が貧しかった時代のほうが、今のような脅迫犯罪がなかったように思えるのですが。


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