七月に軽い脳溢血で倒れた韓国人の友人Hさん宅を訪れた。
ドアを開けると待ちかねたようにして出てきた彼女は、挨拶もそこそこに「あの話は、あれから進んだのですか?」と訊くのに「何がですか?」と私。
歳を取って、こちらの施設に入った場合アメリカの不味い食事に堪えられないだろうから、日本に帰ろうかと思うことがあると話したことがある。
それ以来「本当にお帰りになるのですか?いつでしょうか?」
「貴女がいなくなったら、私はどうして生きていったら良いのでしょうか?」と会う度に訊いてくるようになった。
Hさんの父親は、
日本統治時代に銀行の頭取を務めたような家庭に育った彼女は、教養深く聡明で昔の上品な日本語を流暢に話していたのに今回の病で難しい日本語が口から出なくなり吃ってしまう。
何十年と日本から月刊の文藝春秋を取り寄せ、英語の本も愛読し母国語の朝鮮語とで三ヶ国語を不自由なく話していたのに、今となっては一番話しやすい言語は英語だそうだ、これも不思議なこと。
家系だという手の震えは、益々酷くなりテーブルの上に置いた左手は音を立てるほどで見るに忍びない。
その上に左足に異変を感じ初め、会う度にやせ衰え彼女からは絶望感がひしひしと伝わってくる。
几帳面な性格は変わらず、何かをする都度ノートに
日本語で書き込んでいるのが興味深い。
明日になると昨日のことを忘れてしまいそうで、日々の生活を記録しておくのだそう。
「また来ますね。」と玄関のドアノブに手をかけると「多美子さん、私が死ぬまで、日本に帰らないで下さい。」とすがるように細い声で言う。
「今日、明日と日本に帰るわけではないのですよ。どうぞ心配をされないでください。」
「でも、貴女は思い立ったら、すぐに実行に移す人です。だから私は怖いのです。」
「まだまだ先のことですから、安心して養生されてください。」と言い聞かせても「何とか私が死ぬまで、、、。」と、私の手を取って繰り返す。
「判りました。私がHさんを看取ります。」
「本当に看取ってくれるのですか?」
「私が貴女より長生きをしたら、看取ります。」
「有難う御座います。私もあなたの御迷惑にならないようにできるだけ早く。」と、言い出したHさんに「それ以上言わないで。」と遮って、ドアを閉めた。
蒸し暑く日中25度
ジムに毎日欠かさず通ってくる82歳のキューバからの亡命者、Sylvia。
写真を撮ってあげると言うと「待って!」と、なかなか戻ってこなかった。
地下のロッカールームに行って、バッチリ化粧直しをしていた。
22歳から始めたそうだ