ある終戦記念日の思い出   8/15/10

8月15日は日本では「終戦記念日」、韓国では独立記念日である「光復節」。

 スヨンは朝からパソコンにかじりついて韓国の特集番組を見ている。
若い歴史学者たちが、セピア色になった日帝時代の絵葉書や写真を手にして自説を述べているのを、彼女が英語と韓国語を交えて説明をしてくれる。
黙って聞いていた私は最後に「この学者たちは自分の名前すら漢字で書けなくなった世代なのに、どうやって漢字だけで書かれた韓国の昔の書籍や資料を読んで研究をするの?」と反論したけど、ちょっと意地悪かったかな?

 韓国人の親友Hさんに「終戦はどのようにして迎えましたか?」と、今日電話をして訊いてみた。
55歳で朝鮮に渡った岩手県出身の淵沢能恵女史によって、朝鮮子女のために京城(現ソウル)に設立された淑明女学校の全生徒たちは校庭に集合させられた。
(この淑明は現代でも名門大学として有名だが、校史から女史の名前は抹殺されている)
前に立つ日本の将校達の険しい顔や様子に、ただならないことが起きていると感じたそう。
正午、ラジオに繋げられた拡声器から天皇陛下の声が聞こえてきたが、余りにも音声が悪く何を言っているのか誰も理解できなかった。

 何日経ったのか定かでないが、日本人教師達が壇上に立ち生徒達にお別れの挨拶をした。
「他の先生の言葉は覚えていなのですが、女性の英語の先生がね”朝鮮女子として立派たれ!”と言ったことは今でも忘れられません。」

 「13歳のHさんが聞いた貴女の言葉が、65年経った今でも鮮明に彼女の記憶に残っていますよ。」と、その先生に教えてあげれないのが残念。
その先生は「佐内(さうち)先生」と、お名前まで覚えていた。
お作法は「久納(くのう)先生」と、お名前だけでなく漢字まで。
小学校は「横田幸江先生」だそう。

 天皇、皇后両陛下の御真影と教育勅語を納めていた奉安殿を当番の日、級友と掃除をしながら予科練の歌を、いつも歌っていたと言うので「今でも歌えますか?」と聞いた。
「サァー、65年間歌っていませんし、私、音痴ですから。」と、言いながらも「若い血潮の予科練の、七つボタンは桜に錨、、、」と、電話口で歌いだした。
私も電話機を口に近づけて一緒に歌い、二人で笑いあった。
「13才で意味が解って歌っていたのですか?」に「もちろんですよ。」と誇らしげ。

   秋、秋。 夜は窓を閉める
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                  大木となる  名前は知らない


 
by arata-tamiko | 2010-08-16 13:32 | 諸々の出来事


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