仁川上陸作戦で国連軍がソウルを奪還するまでの三ヶ月間、恐怖とひもじさは筆舌に尽くし難かったと李氏は言う。
三日後にソウルを制圧した北の兵士達は「顔を洗わせてくれ。」と李氏や近隣の家々に立ち寄り、中学生の彼は怖さで必死にポンプを押す。
その時目に焼きついたのが兵士たちが顔を拭く韓国では手に入らない上質のタオル。
彼の視線に気づいた彼らは「北はタオルだけでなく食べ物も仕事も豊富だ。妊婦は産前、産後の休暇が4ヶ月もある。」と自分達の国を礼賛し北に来ることを勧誘する。
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植民地時代の日本は鴨緑江の豊富な水資源を利用して水豊ダムを1937年に総工費5億円で建設開始。この水豊水力発電所は世界一の規模で、現在でも殆ど改修工事なしに現役。
北は日本が残した数多くの工場施設で戦後すぐに生産が出来、輸出で外貨を稼いだ)
李氏を紹介してくれたMA州に住むHさんも同じことを言っていたが、「幼顔が残る小さな兵士もいて長い鉄砲を引きずって歩いていました。」と李氏も言う。
「夜になると北の兵士達は家々に押し込んできては、若い男を探して手当たりしだい連れていくのです。そして数日訓練したあと、前線に送り出し韓国軍と戦わせると言った酷いものでした。」
「朝はお粥を一杯食べるだけの日々ですからお腹がすいて、すいて。
動けばよけいすくので家で日本の本ばかり読んでいました。その中に男の子が痩せた子犬を拾ってきて残飯に味噌汁をかけてあげる話があったのです。その時、僕は思いましたよ。
あぁーこの犬は今の僕よりましだな~と。」
どうやって韓国軍と国連軍がソウルを奪還したことを知ったのか?と訊いた。
「一日一時間とか電気がきたのです。日本放送が入りますからラジオを聴いていると”
ただ今国連軍が仁川上陸作戦を成功させました”と、刻々と戦果報告をするのです。それは嬉しかったですよ。」
「
生きるも死ぬも一緒だと誓い合った友達がいましてね、彼のような人を秀才と言うのでしょうね。
次の朝早く、嬉しくって彼の家に飛ぶようにして行ったんです。
彼も日本からの放送を聴いて、嬉しさで家の前の川に走って大声をあげたそうです。
その瞬間、川に爆弾が落ち破片が彼の胸を突き抜けて即死でした。背中に丸く焼け焦げのある血だらけの学生服が壁にかかっていました。彼を思うと今でも胸が痛みます。」
私たち二人は、とっくに深夜一時過ぎたことも気づかず話し続けた。
曇り
そろそろ紅葉が始まる中、前田さんのお兄様ご夫婦を連れて
ニューポートに行く
ボートショーが開催されており大変な人ごみ
お兄さんの奥さんが「昔は注射針を研ぎに出していました」と
言う話し、始めて聞いた。
「考えてみれば、一日中洗面器に溜めた白いクレゾール液に手を
突っ込むのだから、かえって汚いわね。」と言い合って笑った。
高速で強烈なスカンクのオナラの臭気!
前田さんの奥さんも含めて皆始めて嗅いだそう。
日本への土産話になって良かった。